2011/04/20

「ゼロリスク幻想」は幻想

「ゼロリスク幻想」は幻想だろう。

ゼロリスクを求める大衆のせいでリスクを開示できないのだ、と思いたい気持ちはわかる。

しかし、実際、人々は適切なリスク開示を受け入れる。ただし、相応の得るものがあれば。人々は、副流煙もタバコもセックスもお酒も飽食も運転も、それどころか、あやしい店であけるピアスのような行為ですら、得る物のためにリスクという対価を支払っている。これらのどれもやったことがないという人がほとんどいない。彼らはそれらのリスクをゼロだと見積もっているわけではない。

リスク開示をすると人々が過剰に反応するように錯覚するのには理由がある。人々は、適切なメリットを受け取っていない場合、リスクを対価として支払うことを拒否するからだ。

人々がメリットに相応した対価だと判断するには条件がある。1つはメリットを算定できること。もう1つはリスクを自分たちで値踏みできること。そして最後の1つが、最終決定権が自分たちにあることだ。

たとえれば、すなわち、人々は何の商品を分からずに買うことはないし、値段がわからずに買うこともない。そして、決定権がない売買などはしない。


放射能漏れ事故等のリスクの開示について、人々が過剰に反応するのは、その3つの条件を満たさないからだ。


1.人々は受けとるものを交渉できない。
人々は(たとえば原発から)受け取ったメリットを知らない(何も受け取っていないかもしれない)。
我々は商品の押し付けには不寛容だ。欲しくない物を突然押し付けられれば、それは「合理的な市価」より安く見積もられる。

2.人々はリスクの算定ができない
結局のところ情報開示が不十分なので、人々はリスクが算定できない。
小さな瑕疵を報告してこなかったという今までの悪い実績は、人々の信頼を損なっている。そのため、人々はより小さなリスクしか対価として認めない。
過去に対価の水増し請求をしてきた者は、なかなか信用されない。

3.決定権がない。
人々は、原子力発電所のメリットと対価について、契約した記憶をもたない。形式上は、立法を通じて同意したことになっているが、おおよその人々はそのような認識をもっていない。
人々は無理やり結ばされた契約を契約とみなさない。


ゼロリスク幻想はリスク開示をしたくない者にとって便利な言い訳だ。しかし、事実は違う。人々はリスクを受け入れる。たしかに、長い間情報開示を怠ってきた分だけ、より多くのメリットを提示しないと人々は納得しないだろう。しかしそれは今までの債務であって、リスクを与える者が支払うべきコストだ。

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